帰国して、久しぶりに会った人に聞かれる。
「向こう、何年いたんだっけ?」
「3年です」
「いいなあ。じゃあ英語ペラペラだ」
そこで、少し困る。
ペラペラではありません。日常で使うのは、スーパーのレジと、学校の連絡と、病院の受付くらい。込み入った話は、いまだに身構える。
でも、それを正直に言うと「3年もいたのに?」という空気になる気がして、「まあ、生活する分には」とだけ答えてしまう。
そして、もう一つ聞かれる。
「向こうでは何してたの?」
ここが、いちばん答えにくい。
ひとつだけ、先に書いておきます。
この記事では「駐在妻」と書いています。ただ、正直なところ、この呼び方こそが、しんどさの中心にあるのだと思います。名前ではなく、夫との関係で呼ばれる。それが何年も続く。
だから、ここから先はなるべく「あなた」と書きます。
英語圏に住んでも、英語は自動的には伸びません
先に、はっきり書いておきます。これは怠けた結果ではありません。構造の問題です。
駐在中に英語を使う場面を並べてみると、こうなります。
| 場面 | 実際に必要な英語 |
|---|---|
| スーパー・買い物 | 決まった数フレーズ。慣れると考えなくても済む |
| 学校の連絡 | 読むのが中心。返事は定型文 |
| 病院・役所 | 緊張する。でも回数は年に数回 |
| 近所づきあい | 挨拶と天気。深い話には入りにくい |
| 日本人コミュニティ | 日本語 |
気づくと、同じ英語を繰り返しているだけになります。新しい表現を覚える必要がないので、増えません。
しかも、日本人コミュニティは生活の支えです。学校の情報も、病院の評判も、そこから入ってくる。使わないほうがおかしい。そして、そこでは日本語で足ります。
「せっかく海外にいるのに」と自分を責める人がいますが、環境が英語を伸ばしてくれるわけではありません。使う中身が増えないかぎり、住む場所を変えても同じです。
それでも「ペラペラでしょ」と言われる
この居心地の悪さは、思っているより消耗します。
期待されているレベルと、実際のレベルに差がある。それを説明するのも面倒だから、曖昧に笑ってやり過ごす。やり過ごすたびに、少しずつ自信が削れていきます。
そして、こうなります。「私は何年も向こうにいたのに、何も身についていない」
身についていないのではありません。身についたことを、見せられる形にしていないだけです。
本当にしんどいのは、英語ではないかもしれません
ここからが本題です。
駐在に帯同するとき、多くの人が仕事を辞めています。続けられる制度がある会社は、まだ多くありません。
そして向こうでは、こう呼ばれます。「〇〇さんの奥さん」
名前で呼ばれる場面が、驚くほど減る。自己紹介も「夫の駐在で来ました」から始まる。自分を説明する言葉が、他人との関係だけになっていく。
時間はあります。でも、その時間で何かを積み上げた実感がない。「英語が伸びない」より、こちらのほうが重いはずです。
帰国後の「何してたの?」が答えにくいのも、ここが理由です。日々は忙しかった。子どもの学校、住まいのトラブル、慣れない手続き。やることは山ほどあったのに、終わってみると形が残っていない。
もし、こういう選択肢があったら
海外生活をSNSで発信している方、とても多いですよね。
現地のスーパーの品揃え。子どもの学校のイベント。日本と違って驚いたこと。うまくいかなかった手続きの話。
あれ、すごくいい素材です。しかも、日本にいる人には撮れないものばかりです。
SNSはいいものです。手軽だし、反応も早い。日本にいる家族や友人と、つながっていられる。あの場所があるから、乗り切れている部分もあるはずです。
ただ、性質としてひとつ違うところがあります。流れていくということ。
半年前の投稿を、もう一度見返してもらうのは難しい。そして帰国したあと、あのアカウントを開く人は、少しずつ減っていきます。
それと、書いているのはたいてい日本語です。読んでいるのは、日本にいる知り合い。
もし、同じ内容を英語で、記事の形にしたらどうでしょうか。
変わることが2つあります。
読む相手が変わります。日本にいる知り合いではなく、日本を知らない海外の人。「日本ってそうなんだ」と初めて知る人たちです。
そして、残ります。流れていかない。検索から見つけてもらえるし、1年後にも読まれる。「これを書きました」と、URLで渡せる。
どちらが良いという話ではありません。SNSは今のつながりのため、記事はあとに残すため。用途が違うだけです。両方やっている人もいます。
ビザのことは、正直に書きます
帯同ビザ(配偶者ビザ・家族ビザ)は、就労を認めていない国が多くあります。報酬を受け取る仕事をすると、ビザ違反になる可能性があります。
条件は国によっても、ビザの種類によっても違います。この記事では判断できません。必ずご自身のビザの条件を確認してください。
だから「駐在中に稼ぐ」を最初のゴールにしないでください。ビザの条件を調べる前に走り出すと、危険なほうへ行きます。
この記事が勧めるのは、別の順番です。
駐在中は、報酬を前提にせず「書いて、外に出す」。
帰国後に、それを仕事につなげる。
報酬が発生しない発信であれば、多くの場合は問題になりません。ただしこれも、ご自身のビザの条件を確認したうえで判断してください。ここは慎重に進めるところです。
SNSで発信するのと、同じ考え方で始められます。
書くと、おまけが2つつきます
英語力が上がります
スーパーで同じフレーズを繰り返しているだけでは、英語は増えませんでした。使う中身が変わらないからです。
書くと、そこが変わります。「これを説明したい」という具体的な必要が出てくるので、調べます。そうやって調べた表現は、忘れません。
しかも、書くのは自分のペースでできます。辞書を引いていいし、直していい。会話のように、その場で返す必要がありません。
帰国後の仕事につながることがあります
書いたものが溜まると、それがそのまま「こういうものが書けます」という証明になります。
ただし、すぐにお金になるわけではありません。最初の数か月は反応もほとんどありません。そこは正直に書いておきます。
駐在妻にしか書けないものが、確実にあります
ここが、この記事でいちばん伝えたいところです。
毎日、取材をしています
現地で暮らしていると、必ず聞かれます。
「日本の学校って、子どもが掃除するって本当?」
「なんで日本の電車はあんなに時間通りなの?」
「日本人はどうしてすぐ謝るの?」
そのたびに、説明しようとして詰まったはずです。「当たり前すぎて、理由を考えたことがなかった」から。
この詰まった経験が、そのまま書く材料になります。相手が何を不思議に思うのかを、実地で知っている。これは日本にいる人には手に入りません。
外から見ているから、比較ができます
日本にいると、日本の特徴は見えません。比べるものがないからです。
向こうで暮らしていると、いやでも見えてきます。
- 宅配が時間指定どおりに来ることの異常さ
- 病院の待ち時間が長いことと、すぐ診てもらえることの引き換え
- 子どもが一人で登校することが、どれだけ驚かれるか
- 「すみません」が、謝罪でも感謝でも呼びかけでも使えること
この「両方を知っている」という位置は、そう簡単に手に入りません。そして帰国すると、少しずつ薄れていきます。
だから、いる間に書いておく価値があります
帰国してからでは、驚きを思い出せません。「何が不思議だったか」を覚えているのは、いま向こうにいる間だけです。
帰国後に効く形にしておく
書いたものを、外に出せる場所に置いておきます。Mediumでも、noteでも、自分のブログでも構いません。
そうすると、帰国後の会話が変わります。
| 言えること | |
|---|---|
| 何もしていない場合 | 「まあ、子どもの学校と、生活で精一杯で……」 |
| 書いていた場合 | 「日本の文化について、英語で30本ほど書いていました。読まれた記事はこれです」 |
後者は、URLで見せられます。「英語ができます」と言うより、はるかに伝わる。
そして、これは面接でも効きます。ブランクとして扱われる期間が、「英語で発信していた期間」に変わります。空白ではなくなる。
SNSのアカウントでも同じことができそうに思えますが、日本語で書いた日常の投稿は、経歴として説明しにくい。英語で書いた記事なら、そのまま見せられます。
もう一つ。書いたものには反応が返ってきます。海外の読者から「日本にこんなことがあるなんて知らなかった」とコメントが来る。「〇〇さんの奥さん」ではなく、書いた人として反応をもらえる場所ができます。
今日からできること
聞かれたことを、その日にメモする
現地の人に「なんで日本は?」と聞かれたら、3行で書き留めてください。
聞かれたこと:なんで日本の子どもは一人で学校に行けるの?
うまく答えられなかった部分:安全だから、では説明になっていなかった
本当の理由:地域全体で見ている前提がある。登校時間に大人が立っている
この「うまく答えられなかった」瞬間が、いちばんいい材料です。相手が本当に知りたいことだから聞かれている。
まずはSNSと同じ気軽さで
書き始めるのに、高い英語力は要りません。中学英語で書けます。むしろ、難しい英語で書かれた文章より、短い文で書かれたもののほうが読まれます。
SNSに投稿するときも、完璧な文章にしてから出してはいないはずです。同じ気軽さで構いません。違うのは、それが流れずに残る、というところだけです。
帰国の日から逆算する
駐在には期限があります。それは不利な条件に見えますが、締め切りがあるということでもあります。
あと2年なら、月に1本でも24本。それだけあれば、「駐在中にやっていたこと」として十分に説明できます。
まとめ
- 英語圏に住んでも英語が伸びないのは、怠けではなく構造。使う場面が限られ、同じ英語を繰り返すため
- 本当にしんどいのは英語ではなく、自分を説明する言葉が「〇〇さんの奥さん」だけになること
- 帯同ビザは就労を認めていない場合が多い。「駐在中に稼ぐ」を最初のゴールにしない。ビザ条件は必ず自分で確認する
- 順番は「駐在中は報酬を前提にせず書く → 帰国後に仕事につなげる」
- 駐在妻には、毎日「日本ではどうなの?」と聞かれるという材料がある。日本にいる人には手に入らない
- 書いたものは残る。ブランクだった期間が「英語で発信していた期間」に変わります
「向こうで何してたの?」
帰国したあと、そう聞かれたときに、「特に何もしていなくて」ではなく、「海外で暮らしながら、日本のことを英語で書いていました」と答えられる。そして、その先に実際に見せられる記事がある。
それだけでも、数年間の見え方は大きく変わります。
日本を外から見たからこそ気づいたことを、英語で書いて海外の読者に届ける。Write Up Lab では、そんな書き手をグローバルエッセイストと呼んでいます。特別な経歴は要りません。現地の人に聞かれて、うまく答えられなかったこと。その一つひとつが材料になります。
そして、ここははっきり書いておきます。
駐在している数年間を、無理に「何かを成し遂げた期間」にする必要はありません。子どもを育て、慣れない土地で暮らし、毎日を回してきたこと自体、十分に大きな経験です。
ただ、その中で見たものや感じたことを、少しずつ言葉にして残しておけば、帰国したとき、その数年間は「空白」ではなくなります。
誰かについて行った数年間ではなく、自分自身の視点を育てた数年間として残すことができます。